序文
米食悲願
米の名前
古代米-1 赤米
古代米-2 黒米・香米
脚気と米の関係
脚気 その克服
飢餓の構造-消えた食糧
飢餓概観
天明飢饉の昔話
肉食考(ニクジキコウ)-1
肉食禁下にて
肉食開放へ
肉食は開化の味
精進料理とは
精進料理の心
いもの話
仏教と食
おせちの話
ヒエ、アワ
日本食雑感
忍者の携帯食
農稼録
..  精進料理-1

精進料理

 鎌倉時代に始まったといわれる精進料理とは禅宗の僧が広めたのが始まりです。この時代、鎌倉幕府は禅に大きく傾倒したので、武士を中心に民間へも精進料理は広まりました。禅僧は殺生をしてはいけない為、肉や魚を食べられません。従って精進料理とは野菜中心に肉や魚までも使わない料理になります。

 野菜だって生きているのだから、生き物を殺している事に変わりはないとも思いますが、それはさておき、精進料理はまさに菜食主義者の料理といえましょう。

 さて。日本の禅寺では一汁一菜が基本で、朝はお粥と沢庵2切れのみ。沢庵は音を立てないように時間をかけてジックリとかんで食べます。音が隣の人に聞こえる様ではいけない。昼には麦飯と味噌汁。夜は残り物で雑炊。まさに粗食ですが、月に数回のご馳走は油で野菜を炒めて食べます。

 精進料理の特徴は食材が限られている為、栄養不足にならないよう、丹念に考えを巡らされているところです。特にタンパク質の問題は大きく、豆腐、納豆、醤油などの植物性タンパク質の食べ物はは禅寺経由で日本にもたらされたようです。醤油による味付けは今や日本料理の顔ですね。

 とはいえ、同じ禅寺でも国が違えば内容が少しばかり変わる様です。無論、肉食は絶対にしませんが、例えば韓国では味付けが唐辛子仕立てになります。キムチがお国の味だけにこれは当然か。中国の精進料理は油の味付けとなりますが、これは京都宇治の万福寺から広まったという普茶(赴茶)料理が良い例でしょう。

 普茶とは「普(アマネ)く多くの人々とお茶を供する」と言う意味で、中国らしい精進料理です。万福寺を開いた僧の「隠元(1592〜1673)」は隠元豆の名の由来になった人物ですが、彼は江戸時代に争乱中だった当時の中国の王朝・明(1368〜1644)から逃れるようにして1654年来日しました。隠元は中国の禅宗においてはかなりの大人物で、小国の日本人にとってはかなりのインパクトがあった事でしょう。普茶料理は油を使って揚げたりした料理。また肉や、魚のを形どった「擬製料理」があり、食べ方も大皿から取り分けるなど中国らしさが光ります。私はまだ普茶料理を食べた事がありませんが、現在も寺の近くでは食べる事が出来ますから興味のある方は行って食べてみるのも良いでしょう。

 平安時代くらいまで身体を使う庶民は1日3、4食も食べておりましたが、僧は朝の一回だったと言います。しかし鎌倉時代以降、徐々に「非事(ヒジ)」と称して昼や夕にも食事をとる1日3食へ移行して行きます。実はこの習慣の変化が懐石料理を登場させることになります。

 本来、僧は正午を過ぎると食事を取らなかったのですが、次第に夜更かしをして、様々な仕事をするようになってきます。暗くなったら寝るというような時代ならまだしも、これでは腹が空いて堪らない。

 空腹になると体温も下がり寒気がしてきます。そこで暖めた石を湯たんぽのように腹に忍ばせます。このように夜、腹が空くと石を懐(フトコロ)に抱えたことから、懐石の名が生まれました。そして次第に僧侶も夜に夕食を取るようになると、懐石の習慣が料理名に残ったと言うことです。
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