序文
米食悲願
米の名前
古代米-1 赤米
古代米-2 黒米・香米
脚気と米の関係
脚気 その克服
飢餓の構造-消えた食糧
飢餓概観
天明飢饉の昔話
肉食考(ニクジキコウ)-1
肉食禁下にて
肉食開放へ
肉食は開化の味
精進料理とは
精進料理の心
いもの話
仏教と食
おせちの話
ヒエ、アワ
日本食雑感
忍者の携帯食
農稼録
..

仏教と食

 「おはぎ」と「ぼたもち」の違い。これを知っている方は意外と少ないようです。私自身、おはぎは粒アンでぼたもちがコシアンなどと決め付けておりましたが、実はこの違いは仏教に由来します。

 「おはぎ」と「ぼたもち」は基本的に同じ物で、実は違うのは食べるタイミングだけなのです。「ぼたもち」は漢字にすると「牡丹餅」で、「おはぎ」は「お萩」。こう書いてみるとピンとくる方も居られるかもしれません。「ぼたもち」は牡丹の季節、春のお彼岸に食べるものの事です。一方、「おはぎ」は萩の季節、秋のお彼岸に食べるものなのです。

 暑さも寒さも彼岸まで等と言われたそうですが、お彼岸は本来は悟りを開く為の修行期間です。彼岸とは「彼の岸」と言う事で、「此岸」と対になる言葉。彼の岸とは悟りの境地で、苦しみに満ちている此岸とは異なる解脱の境地を言います。だから彼岸中、仏道修行に励む訳ですが、日本では祖霊崇拝の慣習と合わさり、お墓参りに行くようになりました。この時に「おはぎ」や「ぼたもち」を先祖に捧げる事で、先祖を慰め、自分自身も功徳を積むというわけです。ですから自分たちが食べる為のものでもありませんね。

 他に食で仏教に由来するものを拾って見ると、例えば「甘露煮」の「甘露」と言う言葉も仏教の言葉です。甘露とは古代インドの神々が飲む不老不死の飲み物を言ったそうで、甘く美味しい物をさします。

 喫茶店の「喫茶」も仏教の言葉です。喫茶は禅宗の好む言葉で、単に「茶でも飲んで行け」と言う事を表しますが、禅僧は物事の本質、修行の本質と言う物は日々の普通の生活の普通の行為の中に存在すると言う風に考えます。従って茶を飲む事に関しても無心にその行為を行う事で修行をします。この考えは茶道という形に昇華されますが、現在の「喫茶」店で修行をしている人は見られません。

 また良く言う「醍醐味」と言う言葉は醍醐という食べ物を表しますが、これも仏教の言葉です。

 奈良平安時代、貴族・僧侶は乳製品を食しました。しかし牛乳は保存が難しいものです。そこで奈良平安期の人々は牛乳の保存をする為に、これを煮詰める方法をとりました。煮詰めた物は「蘇(ソ)」と言います。これは現代のコンデンスミルクの様な状態にあたる物の様で、当時の食べ物としては非常に栄養価が高く、現在の栄養ドリンク的な存在だったと思われます。

 蘇の脂肪分を集めると「酪(ラク)」と言う物になります。酪は今の酪農の字に残っておりますが、見た目は固形で、バターのような状態でしょう。

 牛乳の状態から何度も精製し、第五が醍醐ということでしょうか、第五番目の最終段階に達するといよいよ醍醐になります。この醍醐は大量の牛乳からほんの少ししか取れない貴重な物です。そして物事の真の素晴らしさや、深い味わいをさす「醍醐味」は仏教では至上の釈迦の言葉、教えをいうものになりました。

 因みに醍醐の味は江戸時代の学者・平田篤胤によると「はなはだ美味い」のだそうですが、この醍醐を再現して食べてみたTV番組では、レポーターは残念ながら味がしないという様な事を言っていました。
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