序文
米食悲願
米の名前
古代米-1 赤米
古代米-2 黒米・香米
脚気と米の関係
脚気 その克服
飢餓の構造-消えた食糧
飢餓概観
天明飢饉の昔話
肉食考(ニクジキコウ)-1
肉食禁下にて
肉食開放へ
肉食は開化の味
精進料理とは
精進料理の心
いもの話
仏教と食
おせちの話
ヒエ、アワ
日本食雑感
忍者の携帯食
農稼録
.. シリーズ 飢饉 2

飢饉概観


 実は縄文期、大きな飢饉と言うものは殆どありませんでした。この時代、縄文人は小規模ながら穀物生産を行ってはおりましたが大部分、まだ狩猟社会でした。狩猟採集社会の特徴は自己の増加、過度の採集は生態系を破壊し、自らも滅びるという自然サイクルに制約されている点です。

 従って、同一エリア内で許容範囲を越える人口増加はありえません。つまり我々の社会の常識でもある「繁栄」と言う発想自体が、即滅亡に繋がるものだったわけです。彼等にとって生きる事は他と共に生きる事であり、他の領域を侵さないという謙虚なモラルがあったようです。

 しかし弥生時代に入り、大陸から本格的な稲作技術がもたらされると人々は水田から繰り出される圧倒的な生産力に惹かれ受け入れるようになります。米は小さなエリア内に多数の人口を養う生産力を持っておりました。より人口が集中をすれば、その集団は他の集団に対して社会的に強くなります。しかし人口の集中は自然災害に対して無防備であるという危険性を含んでいました。人口が多い為、一度の旱魃(カンバツ)でも大量の人が飢える危険。これが「飢饉」であると言えましょう。

 古代律令国家は、どれほどの効果を持ったかは分かりませんが「義倉(ギソウ)」と呼ばれる備蓄庫を作り、平時アワを納めさせました。商品経済が徐々に整ってきた奈良時代には米価安定の為の「常平倉(ジョウヘイソウ)」を作り、飢饉で米価が上がった時、それを放出して米価の安定に努めたと言います。

 しかし平安時代、京都はより巨大な都市化を進めていたので、飢饉の規模もこれまでないほどの巨大なものに発展していきました。飢饉では赤子が母の乳を吸ったまま死に、老人は道端の草の根を食って死ぬという光景が無造作に目前に広がりました。

 鎌倉時代も被害の拡大傾向は変わりません。鎌倉時代の飢饉には人肉食の話が多く、被害は何処までも劣悪化しております。京都で起きた飢饉に仁和寺の坊主が死者の数を数えた所、42300人以上あったと言います。

 やがて室町時代以降、飢饉が起きると諸国の貧民層が上洛すると言う現象が起きるようになります。街に行けば何とかなるという考えでしょうが、これによって京都に乞食があふれ、餓死者も更に拡大しました。

 江戸時代、各地の富を収奪した都市にはちょっとの飢饉では倒れない体力が備わっていました。その為貧民層は生きる為、各地の城下町に乞食の旅へでました。しかし生き残るのは中々大変だったようです。天明の飢饉では30万を下らない死者が出ております。商品経済の中で単純に農産物を生産する存在になっている農民には食料を求め山野に入っても、何をどう食べれば良いのかも分からない人が多く居ました。この為、飢饉対策本として、江戸時代には山野の物をどう採って食べるかをまとめた本が出版されております。

 古代から江戸時代にかけて起きた飢饉の数は分かっているだけでも370件程(3年に1度)と言われますから、人間の生活は飢饉との戦いでもありました。また飢饉の原因が食の不足ではなく社会システムの問題にある以上、これからの時代、飢饉は無いという理屈は成り立たないということに注視すべきでしょう。
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